MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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No211 シード校とのたたかい…そして、0-2。~大農野球部のたたかい(2)

 こんにちは。伊東です。今日は大農野球部7部作シリーズの第2話。私が在籍していた当時の大農野球部を書いていきます。

1991年 ただ一人の3年に勝利のプレゼント~大船渡農12-7大原商高 大船渡農3-10水沢高校
 新チーム、メンバーは11人。90年秋の新人戦は10人でたたかいましたが、気仙地区リーグは0勝5敗。最終戦の大船渡戦では先発した背番号6の選手が力投し、あわや勝利か、という所まで追い詰めましたが、最後にエラーが出て、3-4で敗れました。
 その年の冬、色々な事情で3人が野球部を離れてしまい(その中にはエースピッチャーも)唯一残った新三年生も色々苦しんだと聞きます。前年がああいう飛躍した年なので、同じように出来るか、という悩みもあったのかもしれません。
 そして翌年。一年生が8人が入部してきました。一年の中からレギュラーに3、4人入り込み、ポジション争いも活発になりました。残念ながら、当時の2年生がさらに一人やめ、一人は名簿上の部員になる中、人数こそ14人、三年生は1人、二年生は5人と少人数の野球部でしたが中身濃く野球ができました思い出があります。

 夏の選手権大会。初戦の相手は、前年にも対戦した大原商でした。試合は、序盤は大人しい展開でしたが、両校投手共に四死球を連発。中盤には激しい点の取り合い…というか、ゆずり合いをしてしまいました。
 それでも、チャンスを比較的多く生かした大農が、大原を突き放し、12-7で勝ちました。途中マウンドを一年生投手に譲りはしましたが、結局アウトを全部とったエース(先に書いた背番号6の投手)が準完投勝利を挙げました。なお、この試合の大農17、大原12の両チーム29四死球は、歴代3位の記録だそうです。

 この年の大会は雨天中止が多く、一度地元に帰りました。気になったのがキャプテンの事です。大会3週間前までは、打率が4割に届くか、という勢いで打ちまくっていましたが、最後の夏、というプレッシャーがかかったのでしょうか。何試合か安打を打つことができずにいました。先の大原との試合では1打数無安打4四球。ボールが見えていた証だし、投手ライナーの当たりにはいいものもあっただけに、最後の試合の復調を期待しました。

 三回戦、水沢との試合。前日の試合は4回ノーゲーム。それまで数日降り続けた雨がウソのようにスカッと晴れました。その太陽の下での水沢との試合でしたが、やはり彼らはシード校。一枚上手でした。
 試合は初回にいきなり4点を奪われ、5回終了までに9点差。6回表に相手投手の無制球もあり、押し出しで3点を返しますが、反撃もここまで。キャプテンは、7回ツーアウトから打席が回りましたが、サードゴロに終わり、一つの青春が終わりを告げました。一度は重圧から退部も考えたといいますが、辛抱してやってきた意味のある、この年のキャプテンの野球部生活でした。

1992年 勝負強さNo1チーム…その苦悩~大船渡農10-3千厩東 大船渡農2-10一関一高
 この年の一番大事なゲームを、別記事にしてしまいました。リンクも利用して、何とかうまくつないでみます。
 新チームにかけて抜けたメンバーは一人。しかし、気仙地区各校には中々歯が立たずまたもや秋季リーグ戦5連敗。そして、翌年春。監督がそれまでの消防士と兼務していた方から、転任してきた実習助手の方に代わりました。
 正直言えば、この監督がいるから大農に進学した私。心は大きく揺れました。さらに、チームに対しての刺激策として一年生2人(しかも一人はテニス部出身)をレギュラーにするなど、チームの進め方を変えた事によって、一時的な混乱が起こってしまいました。

 それでも、一度目標がロックオンされれば強いのがこのチーム。程なく新しい監督のやり方に納得して進み始めた大農野球部。練習試合でも、経験と勝負強さがミックスし、表題にも書いたとおり「勝負強さはナンバーワン」といわれるチームを作り上げた次第です。
 大会前にけが人が続出したり、練習への態度をめぐって小競り合いになるシーンはあったものの、全体に言えばいい雰囲気で、夏の大会に臨みました。

 夏の大会一回戦。大農は千厩東と対戦。先手は取ったものの、千厩東にすぐ追いつかれ、重苦しい雰囲気のまま進んだ6回。大農打線は勝負強さを爆発させ、上位打線が連打。さらにこの年からエースナンバーをつけた2年投手が大会第一号本塁打を放ち、一気に差をつけました。
 大農はこのあと、8回にも3点を奪い10-2。最終回はリリーフした前年のエース(センターにコンバート)が相手主将に打たれたものの、ビシッとしめて10-3。8回コールドで快勝し、全校応援の期待に答えました。
 が、この後のインタビューでバカコーチャーが大暴言。第二シード校に「挑戦状」を叩きつけてしまいました。その辺の顛末はここからどうぞご覧ください。

 二日後。試合は始まってしまいました。初回、先頭打者の三塁強襲ヒット。あれでメンバーが一気に固くなってしまいました。2年生エースは、この年防御率が6点を割った(一人目は90年のエース)の投手でしたが、それまでの投球がウソのように一関一高の打線につかまり、滅多打ちを食ってしまいました。(この試合の失点で防御率が4点台になってしまいました)
 4回には背番号12の選手にあと50センチでホームランというファール。さらに続く背番号10の選手には思い切りぶん回されて、ライトスタンド遥か彼方へと消えていく大ファールを打たれてしまいました。これでエースはKO。この時スコアは0-10となっていました。

 5回表。2番に入っていたターの三塁打のあと、キャプテンの犠飛が飛び出し、5回コールドは阻止。3年生投手が踏ん張りを見せる中で、6回にはマッコの二塁打→2年サードの進塁打→ターの内野ゴロで一点加えました。しかし、前半にとられた点数が余りにも大きく、7回には三年生キャッチャー、セカンドが相次いで倒れ、ゲームセット。7回コールド2-10で敗戦。「大農野球部最大の挑戦」は幕を閉じました。
 ここで書いておかなければならないのが、もう一人の三年生。残念ながらレギュラーには届かなかったものの、監督は「夏の大会での起用」は考えていたようでした。しかし試合直前にまさかの盲腸で入院。後年、再会したときに「監督が一度は出すって言っていた」と話を振ったら、首を軽く振りながら「何、もういいぞ、その話は。もう済んだ話だ」とさばさばとしていましたが、三年次の夏の大会での出場は、次章でも触れるとおり、貴重なものがあります。結果はどうあれ、その舞台に立たせてやりたかったです。この年の3年生は、実力もさる事ながら底知れない勝負強さを持つ、二試合だけで終わらせたくなかったチームでした。

1993年 悔いはないが悔しさ残るラストゲーム~大船渡農0-2岩谷堂高
 こうして2年間過ごしてきた野球部も、自分=伊東達が在籍するのは、あと一年になりました。夏の大会終了後、執行部が決まり、主将はサード。副将は…これは度々自分のブログに出てきているので名前を挙げてもいいでしょう。マッコが就き、書記はマネージャーの一人。私ですか。副主将補佐…。
 「補欠からはキャプテンにはできない」
 という方針でこうなりました。ま、実際「キャプテン勉」じゃ大農野球部大混乱でしたね。
 バカ語りはここまでにして、この年は久しぶりにリーグ戦以外にも秋に練習試合を組むことができました。釜石商に僅差のゲームをした事を自信にして臨んだ秋季リーグ戦。しかし、他のチームは、それ以上の「自信」をつけて大会に臨んできました。
 結果、5試合計2-66で5連敗!しかも大会後に、一気に3人退部してしまいました。その中には正捕手も…やむを得ず、その後の練習試合では伊東を正捕手にして臨んだ練習試合ですが、結果1-12、3-7で連敗。次の年に勝つには捕手をどうするか、という課題ができました。

 その問題は翌年の入学式にあっさり解決しました。一年生に攻守共に優れた捕手が入部。私は「スーパーサブ」に回りました。
 この年は2年次からエースの投手が相変わらず安定し、ショートのター、センターのマッコは計算のできる走れる選手。セカンドのレギュラーこそケガで安定しなかったものの、2年ファーストとライト(前述のテニス部出身選手)の成長、レフトに入った一年生の安定した活躍で、誰かが入らなければ、大きい穴はないチームに仕上がりました。
 唯一つの難点は、沈んだ雰囲気をぶち壊すような選手がいなかった事。三年生になる前に、さらに二人野球部を抜け、一年生3人を加えても、13人という小所帯は、練習するにも辛いものがありました。

 さらにサードを守るキャプテンが、そのプレッシャーに押しつぶされ、実力の50%も出せない状態になり、夏の大会を前に、エースが主将に就任する事態になりました。(再び立候補したバカがいたが、同じ理由で2秒で却下)こうしたドタバタはありましたが、過去2年、1勝している事に自信を持ち、夏の大会に臨みました。

 前の試合でライバルの大船渡が快勝していた後の試合。大農のエース、岩谷堂のエース共に譲らないピッチングを見せていました。試合が動いたのは4回。2回表に隠し球でチャンスを逃していた大農の気落ちを突くかのように岩谷堂は攻め、9番に入っていた一年生のセンター前ヒットで先制を許してしまいます。さらに次の回にもバッテリーエラーから1点を取られた大農は、ここで「秘密(にしておきたかった)の切り札」をセカンドに入れます。
 「8番、セカンド伊東勉君。背番号11」

 ま、確かに球場は沸かしました。ただのゴロを暴投するわ、どう見てもファーストフライを「オーライ」といった手前、30メートル走ってギリギリでランニングキャッチするわで、岩谷堂700人の応援団を笑わせ、大農400人の応援団を冷や冷やさせました。
 それでも、エースは11安打を浴びながらも8回を投げきり、9回表の攻撃を迎えました。5番の一年捕手、6番のターが倒れツーアウト。ここで7番に復活していた二年セカンドが、この日三本目の安打を放ちました。次の打者は…私でした。

 確かに野球は下手だ。だけども野球が好きなのもその通り。全校応援400人の応援の中で打席に立つ事は二度とないだろう。これ以上ない状況に、芯から燃えて打席に立ちました。
 初球ボール。二球目ファール。三球目もファール。四球目ボールでランナー盗塁。五球目もボールでカウント2-3。そして、投じられた6球目…低めに外れたフォアボール!
 その瞬間、派手にガッツポーズを見せ、一塁へと駆けて行った。たかがフォアボール。だけどそれは、全校応援の期待に応えた一つの結果でした。

 だが、この後をつなげる事ができず、ゲームセット。
 このときのチームの歩んできた道には、何の後悔もしていません。ただし、自分の力での夏一勝を成し遂げられなかった悔しさだけは、今でもずっと、ずっと心のどこかに刺さっている棘の様に残っています。
 新チームが結成し、他のメンバーは野球部から身を引きました。しかし、私は裏方の立場で、関わり続ける事になるのでした。

 何か自分の野球部史にしてしまった感じもしましたがどうでしたでしょうか。次回は、悩みながらも道を切り開いた94~96年を取り上げる予定にしています。

PS 今でも、あの時の「かっ飛ばせーっ い・と・う!岩高たっおっせーっ おおっ!」という応援の声。耳から離れません。あの時応援してくれた大農のみなさん。あの声援が、今でも私の人生の支えになっています。
 そして、7番を打った二年生へ。普段クールな君が、必死になってつないでくれた事に(試合に勝つため、でしょうが)今でも心から感謝します。


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